デビュー当時、岡田有希子のプロデューサーであった福田氏は、有希子と一緒に仙台にある所属レコード会社の営業所へ挨拶に訪れた日のことを今でも忘れられないと言います。
「有希子は『恋人のいらっしゃる方は3分の1、奥様のいらっしゃる方は4分の1で結構ですから有希子に愛情をください』と言いました。こんなことを話した子は初めてでした。独身の男性社員が『僕は100%です』と言いだし、大変、盛り上がりました。その後、札幌に一緒に行ったとき、彼女が街を歩いていたら雪でステーンと転んだ。大丈夫かと見たら、しばらく有希子は仰向けに寝たまま、『星がきれい』と言っていましたね。」

このように、彼女の天真爛漫な性格や明るい笑顔は多くの人々に愛されていました。
念願のデビューを果たした有希子は、歌や踊りのレッスンに励み、その愛らしいルックスも相まって話題となりました。同期には荻野目洋子や菊池桃子、吉川晃司などがおり、賞レースで競い合っていましたが、有希子は周囲に気を使う“繊細で優しい面”も持ち合わせていました。
「不思議な子でね、新宿音楽祭など金賞が2組ある賞を取るとニコニコしていたのに、1組しかもらえない賞だともらっても浮かない顔をした。どうしたんだと尋ねると、私がもらったら他の歌手のファンに悪いなんて言ってました。有希子はレコード大賞最優秀新人賞を取りましたが、この賞を取れたのは、うちでは他は桜田淳子だけ。聖子も取れなかった。“最優秀”はなかなか取れないのです。」

しかし、そんな有希子は1986年4月8日の昼過ぎに突然、自ら命を絶ってしまいました。
福田氏は少し苦しげに当時を振り返ります。
「その朝、相澤(秀禎)から『有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ』と電話が入ったんです。駆けつけるとカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた有希子が泣いていた。ワーッと声を出して泣くのではなく、シクシクという感じで。幸いためらい傷だけだったので、医者に入院の必要はないと告げられ、私は有希子を連れてタクシーに乗りました。
『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』と尋ねると、事務所がいいと言うので、四谷へ向かったのです。」

当時、有希子はデビュー2年目であり、8枚目のシングル「くちびるNetwork」が初のチャート1位を獲得し、ポスト聖子として人気は絶頂でした。3月末に高校を卒業し、4月に下宿していた相澤氏の家を出て、念願の一人暮らしを始めたばかりでした。
「有希子を6階の社長室に連れていき、私と付き人の女の子が寄り添いました。しばらくすると外にいた相澤から電話が入ったので、私が隣室に移った。その隙に彼女はスウッといなくなってしまったのです。」
有希子はその直後、自ら命を絶ち、福田氏は1時間後、相澤氏とともに記者会見に臨みました。

「会見のときは本当につらかった。しかし、記者の質問には正直に全部、答えようと相澤と話し合って臨みました。俳優との交際も原因ではないかと記者らに問われましたが、真相はわからない。私がわかっているのは、有希子が素敵な子だったということ。彼女のお父さんに葬儀のとき、『短い人生でしたが、人生を凝縮したような幸せな子でした』と言われました。相澤も私も、どれほどその言葉に救われたかわかりません。」
岡田有希子の突然の死は、日本中に大きな衝撃を与えました。彼女の悲劇的な最期は、今でも多くの人々の心に深く刻まれています。彼女の生き生きとした姿、そして彼女を愛し支えた福田氏の後悔は、30年後も消えることはありません。
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