平成28年7月31日、昭和最後の大横綱と呼ばれた千代の富士は61歳の若さで旅立ちました。彼の葬儀は相撲協会主催ではなく、小部屋主催のお別れ会という形で行われました。遺族の意向で、協会関係者の席は設けられず、唯一の例外は発覚親方こと元大関の北斗富士だけでした。この背景には、千代の富士が生前に相撲協会内の悪と戦っていたことが影響しているのです。

千代の富士が横綱昇進を果たすまでの道のりには、当時の第一人者であった北の湖の存在がありました。北の湖は「憎たらしいほど強い」と言われた大横綱であり、千代の富士にとって大きな壁でした。しかし、千代の富士は北の湖を破り、横綱の座を手に入れました。
その後、千代の富士の時代が訪れ、北の湖の優勝回数を上回る31回の優勝を果たしました。しかし、平成3年、18歳の若手力士であった貴乃花に敗れ、3日後に引退を表明しました。
千代の富士は引退後、親方として弟子の育成に努めました。しかし、平成20年に理事に初就任するまでには、引退から17年もの歳月がかかりました。この遅い出世は、千代の富士の振る舞いや他の親方との付き合いの悪さなどが原因とされていますが、実際には部屋の規模や一門の問題も関与していたと考えられます。
千代の富士は平成24年の理事会選で再選され、高の花と共に北の湖の理事長再任に尽力しました。しかし、この時彼は気づいていなかったのかもしれません。北の湖が影で操られていることを。

北の湖が理事長に就任した際、彼に近づいたのが小林義彦でした。小林は兵庫県警を退職後、企業し、コンサルタント会社を設立しました。彼は北の湖のセクハラ疑惑をもみ消し、その恩を売ることで北の湖の弱みを握り、相撲協会を内部から操る存在となりました。
千代の富士は小林の影響力を排除しようと試みました。彼は小林の行為を月刊誌「宝島」にリークし、相撲協会内での悪事を暴露しました。しかし、このリークは大きな騒ぎにはなりませんでした。他の親方や協会職員が口を閉ざしたためです。

平成26年、理事選において千代の富士は僅か5票しか獲得できず、惨敗しました。小林の圧力により、千代の富士は平年寄まで降格されました。この理不尽な扱いは千代の富士にとって最後の戦いとなりました。
千代の富士は平成28年に逝去しました。彼の葬儀が協会層で行われなかったのは、小林の影響力を排除しようとした彼の行動に対する協会の対応だったのです。
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