紫式部が藤原彰子に仕えることとなったのは、寛弘2年(1005年)またはその翌年のことだった。夫を亡くし、シングルマザーとして生きる中、彼女は彰子の女房として宮中に住み込むことになった。藤原道長の長女であり、一条天皇の中宮でもあった彰子は、当時16歳。紫式部はその約二倍の年齢で、30歳前後だったと推測される。

宮仕えの裏にある道長の思惑
紫式部が仕えることになった中宮彰子は、藤原道長の娘であり、彼女の宮仕えは単なる就職ではなかった。道長の狙いは明確だった。紫式部に『源氏物語』の執筆を続けさせ、その作品を一条天皇に見せることで、彰子への寵愛を高めさせようとしていたのだ。つまり、紫式部は道長にとっての文学的な駒であり、政治的な道具でもあった。

宮仕えに対する紫式部の葛藤
現代から見れば、宮仕えの仕事に加えて、文才を認められて小説の執筆まで許された紫式部の状況は恵まれているように思える。しかし、当の紫式部は必ずしもそう感じていなかった。彼女の歌集『紫式部集』には、宮仕えを開始して間もなく詠まれた以下の歌が収められている。
身の憂さは心のうちにしたひきていま九重ぞ 思ひ乱るる
(宮中での生活は心に重くのしかかり、思いが乱れるばかりです)
この歌からもわかるように、紫式部は宮中での生活に強い不安と憂鬱を抱えていた。そして、彼女は実際に、宮仕えを始めてからわずか数日後、歌会の後に実家へ帰ってしまったのだ。

実家へ帰った理由とその背景
紫式部が実家へ帰った理由は明確ではない。しかし、彼女が同僚の女房たちに送った次の歌が、その心境を物語っている。
閉ぢたりし 岩間の氷 うち解けばをだえの水も影見えじやは
(私の心を閉ざす氷が解ければ、私も出仕しないということはありません)
この歌は、彼女が宮中の人間関係に苦しんでいたことを示唆している。それに対し、同僚の女房たちは優しい言葉で返事を送ってきたものの、紫式部の心は解けることなく、その後も彼女は実家に引きこもり続けた。

紫式部を取り巻く宮中の陰口
紫式部が実家に引きこもる中、宮中では彼女に対する陰口が飛び交っていた。『紫式部集』には、以下のような嘆きの歌が収められている。
わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひ捨つべき
(仕方がない。あの人たちは私を人並みといわないでしょうが、自分で自分を見捨てることはできないのだから)
この歌からも、彼女が宮中でどれほど孤立していたかがうかがえる。しかし、紫式部はそれでも自分を見捨てることなく、頑として実家に留まり続けた。
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