三淵乾太郎さんは、東京帝国大学法学部に進学し、その後司法省に入省しました。東京地方裁判所の予備判事から始まり、東京民事地方裁判所判事、司法事務官、そして北京への領事としての赴任など、多岐にわたるキャリアを積んでいきました。この経歴だけでも十分に素晴らしいものですが、初代最高裁長官の息子としては控えめなものだったのです。
実は、当時東京にいる若手裁判官自体がエリートの証であり、東京で裁判官を務めていた乾太郎さんは間違いなくエリートでした。しかし、彼には一つの転機が訪れます。それが「桜会」への入会です。桜会は、司法省に対抗して司法権の独立を求めた若手判事の集まりで、最後の代表は「虎に翼」の内藤義彦のモデルとなった人物でした。

桜会では、「良い裁判とは何か」「司法の独立」といったテーマが議論され、裁判官は出世に囚われず判決を書くべきだという理念が共有されました。
しかし、この会の活動により、エリートである乾太郎さんが出世を拒否する事態が発生し、彼らは批判や嫉妬を受けることとなります。
上層部は乾太郎さんを政府主催の総力戦研究所への出向を命じ、彼はそこで日米戦争における司法制度のシミュレーションを行いました。これが彼のキャリアに大きな影響を与えたのです。研究所でのシミュレーションの結果は、実際の戦況を見事に予測したものでしたが、上層部はそれを「机上の空論」として取り合わず、日本は敗戦へと向かってしまいました。

戦後、GHQによって司法省は廃止され、桜会の願いであった裁判所の独立が達成されます。しかし、彼らの反骨精神が災いし、桜会出身者は冷遇されることとなりました。乾太郎さんもまた、その余波を受け、浦和地方家庭裁判所所長というポストに留まることになります。
乾太郎さんの人間性を表すエピソードとして有名なのが、1949年に起きた小田原一家5人殺害事件です。この事件の裁判官として、彼は被告人に死刑を言い渡しましたが、後にその被告人が控訴を取り下げる意思を見せた時、乾太郎さんはわざわざ拘置所に赴き、控訴を進めたのです。

記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
次のページ