三淵乾太郎さんは、東京帝国大学法学部に進学し、その後司法省に入省しました。東京地方裁判所の予備判事から始まり、東京民事地方裁判所判事、司法事務官、そして北京への領事としての赴任など、多岐にわたるキャリアを積んでいきました。この経歴だけでも十分に素晴らしいものですが、初代最高裁長官の息子としては控えめなものだったのです。
実は、当時東京にいる若手裁判官自体がエリートの証であり、東京で裁判官を務めていた乾太郎さんは間違いなくエリートでした。しかし、彼には一つの転機が訪れます。それが「桜会」への入会です。桜会は、司法省に対抗して司法権の独立を求めた若手判事の集まりで、最後の代表は「虎に翼」の内藤義彦のモデルとなった人物でした。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
次のページ