橘則光の人物像と清少納言との関係
橘則光は、康保2年(965年)に橘敏政と右近尼の間に生まれました。右近尼は花山天皇の乳母を務めた人物で、橘則光は花山天皇の乳兄弟という立場にありました。このような背景から、彼の人生は一見すると順風満帆であったかのように思われますが、実際には波乱に満ちたものでした。

清少納言との結婚生活は、性格の不一致から早々に終わりを迎えました。文才溢れる彼女に対し、則光はどちらかと言えば実務的で、武勇に優れた体育会系の人物でした。盗賊の襲撃に遭った際には返り討ちにするなど、戦いに強い一面を持っていたものの、日常生活においてはあまり機転が利く方ではなく、友人に対して「和歌を詠みかけたら絶交する」と宣言するなど、文学的なセンスには欠けていたようです。
このようにして、風流や文雅とは無縁な則光でしたが、実は一首の和歌が勅撰和歌集に採録されています。
その和歌とは、彼が陸奥守(むつのかみ)に任じられ、遠く東北へ向かう旅路の途中で詠んだものでした。
逢坂の関で詠んだ和歌—梅の花との出会い
則光が詠んだ和歌は『金葉和歌集』(平安時代後期、源俊頼撰)に収められています。この和歌が詠まれたのは、彼が陸奥守として京を発ち、山城国(現在の京都府南部)と近江国(滋賀県)の国境にある逢坂関に差し掛かった時でした。

「われひとり いそくとおもひし あづまぢに かきねのうめは さきたちにけり」
この和歌は、遠い陸奥国へと急ぐ自分を梅の花が先に迎えてくれたという、少しメルヘンチックな感性が表現されています。梅の花が咲き誇る垣根を見て、則光は「私だけがこの旅路を急いでいると思っていたが、実は梅の花が先にこの地に到着していたのか」と、旅路の寂しさを少し和らげるような気持ちを込めて詠んだのでしょう。
この一首に込められた感情は、無骨な武人である則光が、孤独な旅路に一瞬の慰めを見出した姿を想像させます。文学的な才能を持たなかった彼が詠んだこの和歌は、彼にとっても特別な思い出の一つだったのかもしれません。
武勇に優れた則光の生涯

則光は、寛和2年(986年)に花山天皇が突然出家・譲位した後、一時期は不遇をかこつことになりましたが、やがて一条天皇の側近として仕えるようになりました。彼は、修理亮や左衛門尉、検非違使尉などの要職を歴任し、長保4年(1002年)には遠江介(遠江国の国司次官)、寛弘3年(1006年)には土佐守、そして寛仁年間(1017〜1021年)には陸奥守として国司を務めるなど、確かな地位を築いていきました。
しかし、その一方で、彼の文雅の欠如や機転の利かなさが、清少納言との離婚を引き起こしたのは皮肉な運命です。清少納言のような才女には、やはり文才に溢れた夫が必要だったのかもしれません。

橘則光と清少納言の子孫
清少納言との間に生まれた橘則長をはじめ、則光には他にも子供がいました。彼の家族は、その後も続いていき、橘氏の血筋は次の世代へと受け継がれていきます。
しかし、その家庭の物語は、清少納言との離婚後、別の女性との間に生まれた子供たちが中心となり展開していくことになります。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
次のページ引用元:https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid027Rbi8LTrQaeWDQPS3FuZUwz8tE94YqDyNAQY7nHnvtwBmMpGMFyvpuKobdig4xtzl&id=100063888828687,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]