戦国時代の合戦といえば、華々しい印象がありますが、実際には命を懸けた熾烈な戦いが繰り広げられ、多くの戦死者が出ました。今回は、戦国時代の合戦における戦死者の処理について詳しく解説します。この部分は教科書ではあまり触れられていない、歴史の闇に迫る内容です。
戦国時代の戦の場合、死亡率は意外にも低く、約3%程度と言われています。例えば、数百人の兵が戦う小規模な合戦では数十人程度、二十万の大軍がぶつかった「関ヶ原の戦い」でも戦死者は約六千人程度でした。戦とは備え(集団)の崩壊が敗北の象徴であり、備えが崩れた時点で戦いはほぼ終わり、多くの兵が命を守るために逃げることが多かったのです。

ただし、例外もあります。
第四次川中島の戦いでは、死傷率が40%を超え、設楽ヶ原の戦いでは武田軍が約一万五千の兵のうち一万人を失いました。川中島の場合は、遭遇戦で本体同士が直接ぶつかり、指揮系統が麻痺する中で消耗戦に突入しました。一方、設楽ヶ原の戦いでは、撤退する武田軍の退路が遮断され、多くの兵が逃げ場を失い、追い詰められた結果、惨劇が生じました。
戦いが終わると、戦場には多くの遺体が残されます。勝者側は味方の戦死者を丁寧に埋葬する一方、敗者側はそのまま放置されることが多かったです。戦場には地元の領民たちがやってきて、武具や甲冑、兵糧などを持ち去る「戦場狩り」が行われました。これは、戦場となった地域の特権として認められており、領民たちの貴重な現金収入源でもありました。

戦場狩りによって遺体は裸にされ、遺体の処理が行われない場合、放置された遺体は野生動物によって処理されました。熊や野犬、カラスなどが遺体を食べ尽くし、最終的には昆虫やバクテリアが分解し、半年もすれば骨だけが残るという状況でした。これは、戦国時代において一般的な光景であり、自然に返すという考え方が根付いていました。
引き分けに終わった合戦の場合、戦死者の処理は双方で行われました。例えば、1552年の「赤塚の戦い」では、織田信長と山口のムが戦い、引き分けに終わった後、捕虜や馬を交換し、戦死者を弔うために両軍が協力しました。戦国時代の武士道精神が感じられるエピソードです。

静岡県沼津市の千本浜には、戦国時代の首塚があります。1580年、北条軍と武田軍の合戦があった場所で、多くの頭蓋骨が発見されました。その頭蓋骨の中には、槍や銃弾、刀剣による損傷が見られ、さらに頭皮が剥がされたものまでありました。驚くべきは、発見された遺骨の三分の二が男性、三分の一が女性であったことです。
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