徳川吉宗が将軍となるまでの道のりは、紀州藩にとっても、日本全体にとっても波乱に満ちたものでした。江戸幕府を支える重要な家系でありながら、その内部では連続する不可解な死が影を落としていました。これほどの謎が重なり、ついには一大陰謀説がささやかれるに至ったのです。

紀州藩三代目・綱教の突然の死
紀州藩の初代は徳川家康の十男・徳川頼宣です。その息子である二代目・光貞は文治型の政治家として藩を治め、徳川家綱や徳川綱吉の時代を通して、安定した統治を行いました。しかし、三代目となる綱教が藩主となってから、事態は一変します。
綱教は藩主として7年間財政再建に取り組みましたが、その結果を見ることなく、わずか39歳で突然この世を去りました。特に持病の記録もなく、若くして命を落としたその死には、不吉な予感が漂います。

連続する死と吉宗の登場
綱教には後継ぎがいなかったため、弟の頼職が養子として四代目藩主の座に就きます。しかし、頼職もまた26歳という若さで、わずか3ヶ月で亡くなってしまいます。同じ年には二代目の光貞も他界し、紀州藩は一度に3人の藩主を失うという未曾有の事態に見舞われました。
この急速な代替わりの中で、吉宗が五代目藩主として登場します。しかし、彼が藩主となってからも、将軍綱吉が亡くなり、続く六代将軍・家宣も3年で急死。さらに七代将軍・家継も病弱で、わずか6歳でこの世を去ります。

将軍候補の消失と吉宗の台頭
家継の死を受けて、将軍後継者問題が再燃します。当初、御三家筆頭である尾張家の吉通が後継者にふさわしいとされていましたが、彼もまた突然23歳で亡くなってしまいます。これで将軍候補は吉宗以外に残らず、徳川家の命運は吉宗の手に委ねられることとなったのです。
これまでに7人の徳川家の重要人物が次々と亡くなった事実は、偶然と言うにはあまりに不自然です。もしこれが吉宗を将軍に据えるための陰謀であったとすれば、背筋が凍るような恐ろしい計画が背後で進行していたことになります。

“陰謀”の真相は?
NHKドラマ『大奥』でも描かれたこの陰謀説。ドラマではあの人物が黒幕として描かれていましたが、実際にはどうだったのでしょうか?吉宗が将軍にならなければ、江戸幕府の未来、ひいては日本の歴史そのものが大きく変わっていたかもしれません。

吉宗が将軍となったことにより、江戸幕府は再び安定し、その後の日本の発展に大きく寄与しました。しかし、この一連の事件が偶然だったのか、それとも背後に何かしらの力が働いていたのか、その真相は今もなお謎に包まれています。
もしもあの時、吉宗が将軍にならなかったとしたら、日本はどのような道を辿っていたのか。戦乱の時代に逆戻りしていたのか、それとも別の形での平和が訪れていたのか。歴史のifを語ることはできませんが、この時代の日本にとって、吉宗が将軍になったことが、ひとつの転機であったことは間違いありません。
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