養老元年(717年)8月20日、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は第9回遣唐使として任命されました。彼は、現代でいうところの「ギフテッド」、つまり天才と呼ばれる存在であり、その若さで大海を渡り、唐の地でも重用された人物です。
仲麻呂が遣唐使に選ばれたのは十代の頃。彼は唐に渡り、当時の最先端文化と学問を吸収し、やがてその地で一躍高い地位を築くことになります。彼の名前を知っている方も多いでしょう。百人一首に収められた彼の歌「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」は、まさに彼が唐で詠んだ望郷の歌です。この歌に込められた深い思いは、後世にまで語り継がれています。

仲麻呂の偉業の一つとして、唐の官僚登用試験「科挙」に合格したという事実があります。
科挙は、現代で言えば国家公務員試験のようなもので、当時の中国では非常に厳しい試験でした。外国から来た日本人が現地語でこの試験に合格するなど、考えただけでも驚くべきことです。
仲麻呂が果たしたこの功績は、ただ単に彼が優れた学者であったというだけでなく、その精神力や努力も並々ならぬものであったことを物語っています。彼は唐の皇帝に仕え、国立国会図書館長に相当する「秘書監」や、ベトナムに相当する地域の司令官「安南節度使」としても活躍しました。
仲麻呂は唐で35年もの間過ごし、そこでの生活に深く根を下ろしていました。しかし、やがて彼は帰国を決意します。天平勝宝五年(753年)、奈良の唐招提寺で有名な高僧・鑑真が日本に渡ることになり、仲麻呂もこれに同行することにしたのです。
この時、仲麻呂は50歳を超えており、当時の平均寿命からすればかなりの高齢でした。「これが最後のチャンスだ」と考えた彼は、唐での生活を終え、日本への帰国を決意しました。仲麻呂は送別会で詠んだ歌「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」に、その帰国への思いを込めたのです。

仲麻呂の送別会には、中国史上最高の詩人とされる李白など、当時の唐の文化人たちが多数参加していました。李白との友情は、仲麻呂が唐で築いた人脈の一部であり、その交友関係の広さが彼の影響力の大きさを物語っています。

仲麻呂は日本へ帰国の途につきましたが、残念ながら船が難破し、帰国は叶いませんでした。最終的に彼は唐の長安で生涯を終えることになります。しかし、彼の存在は唐の地でも忘れ去られることなく、彼の後継者たちに大きな影響を与え続けました。
その後、200年にわたり遣唐使は続きますが、唐の内乱や日本の独自文化の発展により、遣唐使の意義は次第に薄れていきました。この時、遣唐使の廃止を提案したのが菅原道真です。道真は「今や中国から学ぶことはない」と主張し、朝廷もこれに賛同。こうして、日本は遣唐使を廃止し、独自の道を歩み始めることとなりました。
阿倍仲麻呂は、その壮絶な人生と天才的な才能で日本と唐の架け橋となりました。
彼が成し遂げた偉業は、現代でも色褪せることなく、日本と中国の歴史に深く刻まれています。彼の望郷の念を込めた歌は、時を超えて多くの人々に感動を与え続けています。歴史の中で輝く彼の足跡をたどりながら、私たちはその勇気と知恵に思いを馳せることができるでしょう。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
次のページ引用元:https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid0UCBvEh1TGvCJ8QKYRyMUmy9TRwE2XryrBhxLBqRAq4sKH8WUNEFs7eDCiKjNYCPol&id=100071279146363,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]