「足を洗ったくらいじゃ、五年だな」
そう呟いたのは、昨間政二。72歳、元暴力団員。長年、裏社会に生き、今は生活保護で細々と暮らしている。
かつてはスーツにロレックス、威圧的な目つきで街を歩いていた男が、今は古びたアパートの一室で、ひざに毛布をかけながら電気ストーブ一台の寒さに耐えている。
「病院には、もう長いこと行ってねぇ。行こうにも保険証がない。昔、戸籍を外してそのままにしたのが、今になって首を絞めてる」
政二の声は、低くて重い。過去の話になると、特にそれが顕著だった。

彼が「ヤクザ」の道に入ったのは16歳のときだった。家庭は荒れていた。父は酒癖が悪く、母はいつも目を伏せていた。学校にもろくに通わず、暴走族の先輩に誘われたのが、きっかけだった。
「お前、根性あんな。親分に会わせてやるよ」
そう言われて出会ったのが、地元でも名の知れた親分だった。
ロレックスの腕時計、大声で笑う顔、初めて名前で呼ばれたときの嬉しさ。あの瞬間の温もりは、今でも記憶に焼き付いている。
「政治、お前を使ってやる。まずは見習いからだ」
その言葉が、彼にとっての「救い」に聞こえた。そして彼は、ヤクザとしての道を歩き始めた。靴磨き、見張り、集金。どんな雑用も誇らしく思えた。やがて後輩ができ、「兄貴」と呼ばれ始める頃には、肩で風を切って歩くようになっていた。
だがその日々の果てにあったのは、後戻りのできない絶望だった。
「兄貴、この先、俺らはどうなるんすか?」
ふと聞いたその問いに、親分は笑わずに言った。

「どうにもならねえよ。死ぬか、檻の中。それ以外、見たことねぇ」
言葉が出なかった。信じていた未来が、初めて虚ろに見えた瞬間だった。
ある日、政二は“仕事”を任された。封筒には相手組織の若い衆の情報。夜、決着をつけろと命じられた。
だが、政二はその夜、手が震えてどうしても行動に移せなかった。思い出したのは、十年以上前に別れた女の声だった。衝動的に電話をかけ、何も言えず切った。そのまま現場を離れ、兄貴分に「もう無理です」と告げて、組を裏切った。
その日から、政二の人生は一変した。
居場所を失い、名前を消し、路上をさまよう日々。公園のベンチ、ネットカフェ、コンビニ弁当の廃棄物。ある日、小雨の中、商店街のアーケードで子供が言った。
「ママ、あの人、絵が描いてある」
背中の入れ墨。過去は、服の下からでも透けて見える。逃げられないのだ。罪からも、記憶からも。
やがて政二は、窃盗未遂で逮捕され、刑務所に入った。番号で呼ばれ、ラジオ体操に工場作業。機械のような日々だったが、妙に安心感もあった。誰にも期待されず、ただ「生きていればいい」という空気。
出所後、福祉施設に送られたが、履歴書は空白だらけ。面接も通らず、また路上へ逆戻り。そんなある日、教会の炊き出しで、かつての舎弟・和田と再会した。
「佐間さん、生きてたんですね」
和田は福祉の仕事に就いており、政二を支援につないでくれた。住民票の再発行、健康保険、生活保護の申請。すべてが初めてのようで、怖かった。でも、「昨間政治」という名前を再び名乗ったとき、不思議と胸が温かくなった。

今、政二は小さなアパートで一人暮らしをしている。
窓から差し込む光、カーテンの揺れ、インスタント味噌汁の匂い。何気ない一日が、かけがえのないものに思える。
「人として扱ってもらえる。それだけで、生きててよかったと思える夜がある」
近所の教会では、掃除のボランティアも始めた。かつて人を支配していた手で、今は床を磨き、ベンチを拭く。
「ありがとうございます、あなたのおかげで助かってます」
そんな一言に、胸が熱くなる。
老いは確実に進む。指の関節は痛み、布団の上で過ごす時間が増えた。だが、朝は来る。ラジオをつけて「おはよう」とつぶやく。静かだけれど、確かな一日が、また始まる。
政二は言う。
「罪は消えない。でも、生き方は選べる。最後に誰かの役に立って、静かに終われたら、それでいい。だからもう少し、この命を使ってみようと思うんです」
かつて肩書きで人を動かした男が、今は名もなき一人として、地に足つけて生きている。その姿に、私たちは何を見るだろうか。
それは、過ちと贖罪の物語。そして、生き直すという、ささやかながら力強い決意の証である。
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